第二次世界大戦中、鹿屋市には笠野原、鹿屋、串良の3つの飛行場があったのをご存じでしょうか。 笠野原航空基地地下道入り口 今回は笠野原航空基地跡の川東掩体壕をご紹介します 大正11年太刀洗陸軍飛行場の離着陸用の民間飛行場として誕生したこの笠野原飛行場は、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に参加した第二航空戦隊艦爆撃隊も、この飛行場を使用したとされております。 昭和20年3月になると米軍の集中攻撃を受け、基地をはじめ整備工場、宿舎や格納庫など壊滅的な被害をうけました。 この掩体壕(えんたいごう)は航空機や物資などを敵の攻撃などから守るために造られた施設で、掩体壕を作るときには大人から子どもまでたくさんの人が動員されたようです。 鹿屋市では200基ほど建設されたと言われる掩体壕の中で唯一現存するもので、この中には零式艦上戦闘機(零戦)が入れられていたと言われています。
第二次世界大戦中、鹿屋市には笠野原、鹿屋、串良の3つの飛行場があったのをご存じでしょうか。
笠野原航空基地地下道入り口
今回は笠野原航空基地跡の川東掩体壕をご紹介します
大正11年太刀洗陸軍飛行場の離着陸用の民間飛行場として誕生したこの笠野原飛行場は、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に参加した第二航空戦隊艦爆撃隊も、この飛行場を使用したとされております。
昭和20年3月になると米軍の集中攻撃を受け、基地をはじめ整備工場、宿舎や格納庫など壊滅的な被害をうけました。
この掩体壕(えんたいごう)は航空機や物資などを敵の攻撃などから守るために造られた施設で、掩体壕を作るときには大人から子どもまでたくさんの人が動員されたようです。
鹿屋市では200基ほど建設されたと言われる掩体壕の中で唯一現存するもので、この中には零式艦上戦闘機(零戦)が入れられていたと言われています。